客人日記

どんどんたのしい

写真表現に関する考察

寝ようと思ってもつまらないことばかり考えてしまうので、写真について考えたことを整理してみる。

 

まずはこの考察の目指すところを整理する。

そもそも写真表現とは何か。それを解き明かす為にある仮説を用いて、写真表現というものに私なりのパースペクティブを与えたいと思う。

多分同じようなことを考えた人は沢山居るだろうけど。

 

一、歴史的原点

ニ、表現としての写真

三、実在

四、現象

五、現象と写真

 

 

一、歴史的原点

写真という技術が確立され、且つ大衆化され、百年余が経った。

基礎となったカメラオブスクラ等は、絵画の補助として作られた。つまり実在の複写としての出発である。

その後、写真は専ら精密な風景や人物の模写に用いられることになる。

これがライカを始め、小型で持ち運べるカメラの登場、そして通信や印刷技術の発達とともに、報道に用いられることとなる。

そして、著名な写真家などによって表現技法のひとつとなった。

つまるところ、写真は実在の複写として始まったものであるということである。

歴史については疎い故、あまり書き散らしては恥を晒すだけなので、この辺りにしておく。

 

 

ニ、表現としての写真

実在の複写として生を受けた写真であるが、今日ではそれに留まらず、様々な自己表現の技法として用いられることも多い。

では実際のところ、写真が表現として成し得ることとは何なのだろうか。

写真が写しとるものは、一般に現実そのものの複写であると考えられている。現実そのものの複写であるのに、表現物足り得るのだろうか。

写真が現実そのものの複写であるとすれば、かかる現実に、フレーミングや露出の決定、その後の加工などの作為を加えることによって、写真は表現物足り得ると考えられる。

この作為というものを徹底的に批判し、排除しようとした写真家がいた。写真を作為から解放し、実在の複写としての写真の原点に挑もうという試みだった。

しかし、写真撮る以上フレーミングという絶対条件は排除し得ないので、作為の徹底排除という意味では、彼の試みは失敗した。そもそも最初から破綻している。

では一体写真とは何なのか。そもそも作為など存在するのだろうか。核心に触れようと思う。

 

 

三、実在

写真は実在の複写である、とするならば、次はその実在について考察してみよう。

実在世界とはまさに今私たちの目の前にある世界である。

果たして本当にそうだろうか。

実在?誰が一体それを保証するのだろうか。

色を例にとると、人の色の認識は個々に違うという。人種や生活環境によってかなりの差があると言われている。海外のテレビ番組などを見てみれば一目瞭然だろう。ホワイトバランスが異なるのだ。

 

ここでひとつの仮説を立てる。

実在世界とは不規則で不可侵の現象の集まりである。

そして、写真もまた不規則で不可侵の現象のひとつである。

 

写真は既に原点から遠く離れ、新たな領域に立ち入っていると私は確信する。

 

 

四、現象

ここでかかる仮説を展開していこう。

この世界は、事物の様々な連関によって成立しているものではなく、個々に独立した、不規則で不可侵の現象の集まりである。この場合、現象とは何らかの動き、変化(可視、不可視を問わない)を指す。

 

例えば、私が山を見て綺麗だと思ったとしよう。細かくは省くが、この仮説に従い、分解すると以下の様になる。

木という現象(時間が木を現像たらしめる)が集まり、山という現象が存在する。

(木と山という二つの現象は全く異質のもので、木があるから山があるのでも、山があるから木があるのでもない。これは人と実在世界にも置き換えることができる。)

それを私(意識)という現象が、認識するという現象が起こる。

そこから新たに綺麗だと思ったという現象が起こる。

 

これらは一見するとひとつの関連性をもっているように考えるが、切っ掛けとしての関連性はもつが、次の瞬間、現象は全ての関連性から解き放たれ、個々の現象として成立する。その先は何者にも侵すことのできない領域となる。

 

 

五、現象と写真

この仮説を写真論に持ち込もう。

写真は撮られた時点で新たな現象として、撮影者たる私にも侵すことのできないものとして、出発する。

つまり、私がレンズを向け、フレーミングをし、露出を決定する、そしてレリーズする、これらは切っ掛けではあっても、写真という現象には何ら関係が無いのである。

 

私たちは己を過信していた。否定するもしないも、私たちの作為など遠く及ばぬところに写真はあったのだ。

それをどうにかこうにか思い通りにしようなどとは傲慢以外の何物でもない。

 

私たちは実在の複写を生み出すのではなく、存在と自我という現象の重なりを切っ掛けに、新たな現象を生み出すべきなのだ。

写真を全ての連関から解き放たねばならない。

写真という現象から新たな現象を生み出すのは、見る人だからだ。見る人を連関の鎖でがんじがらめにしてしまっては、新たな切っ掛けとはなり得ないからだ。

 

写真とはつまり使用済みの感光材、もしくは電気信号だ。

それだけのものが、どれほどの力を持つのか、果たして計り知れない。

なぜなら、それらを切っ掛けに生み出される現象もまた、不規則で不可侵だからだ。

 

 

この仮説は真理に如何程近づいているのだろうか。

整理したつもりだがかなりぐちゃぐちゃだ。まだまだ考えを煮詰める必要もありそうだ。